多岐亡羊

社会を漂いもがいて何とか生き長らえる子羊です。

「私」が私を見つめてました

 「ねほりんぱほりん コスプレイヤー」見た。他者からの称賛を求めるために、つながるために作品利用、とか穿った見方をしてたけど、本来キャラになりきること、だよね。

 しかし、他者からの承認など関係なく、自分が求める姿になる為にひたすら行うっていうのは凄い。

 自分という存在が不要で、他者になることで生きることが出来るって、どういう気分なんだろう。他者になりたい、キャラになりたいってあまり思ったことないなあ、、、。自分って何だろうということで悩み続けて、そんなもの答えは出るわけない、自分なんてなく、そうあるもの、はたまた選択するものである、くらいに捉えている。

 でも、こうじゃない、演じすぎて、作りすぎて、結局何なんだ。とも思う。

 この文章さえも、本当に私の考えていることなのかさえもよく分からない。

 まあ、結局「自分」を諦めていないから悩んだりよく分からなくなるわけで。

 自分を捨ててしまえばそう考えたり悩むことはなくなる。

 アザーズプレイってことか。もう少しうまい例え出ないかな、、、。

 他者からの承認は求めていないが、他者(プレイ対象)が必要なわけで、それに依存しているわけで。

 うーん、よく分からん。

 まあ、他者なんて分かるわけないんだけど。

 終わり。

賛同歌

  イケメンとか美人とか言うけれど、何かを美しいと思う価値観って全ての人に依って違うわけで。だから誰かの言う「美しい」とか「可愛い」とか「カッコいい」とかいうのはその人にとって、そうであるという、それ以上の意味は持たない。単に私はこう思うという自己主張に過ぎず、他者に同調を求めたりすることは見当違いだと思うのだけど。意味する対象は百人いれば百人違う。メディアとかツイッターとかでも、それを同意があること前提で言っている人がいる。おお、面白いな。謎だ。自分の価値観が他者と似通ったもの、賛同を得られるものだとして発信しているのか。そんなに自分の価値観と他者を信用できるものなのか?

 それとも他人を他人とそこまで思っていないのか。他人とも価値観はそこまで変わらないものだと思っているのか。どういうことなのだろう。私はそう思う。お前もそうだろう?という同調圧力か。それとも、私はこう思う。お前もそう思え、という強制か。

 他人なんて何を考えているか皆目見当もつかないし、信用もしていないのでよく分からない。

 そう思いつつもどこかに賛同する人がいないかあと思いながらキーボードを叩いている。

Encore, alcool

 一年ぶりくらいに酒を飲みながらこの文章を書いている。

 前回、飲んだのが去年の2月中旬の卒論発表の後だったから、約1年ぶりだ。

 お酒は「ほろよい ひんやりみかんサワー」。分かる人は分かると思う。半年前くらい前に買って、今日まで飲もうと特に思わなかった。

 しかし、半分くらい飲んでもう頭がクラクラし始めてる。もういらねえ、、、勿体無いが。

 酒に弱すぎて、普通に危険なので、一年に一回くらいしか飲もうと思わない。

 仕方なく、というか好きで『ワカコ酒』を読んで飲んで食べた気になってる。大体それで満たされてるんだけど。

 頭がトリップしてこの世の境目が分からなくなる感覚は心地いい。

 風邪とか温泉とか、寝る前とかの朦朧とした気分、世界を揺蕩う気分になれるものはいいよね。

 だがしかしそんな気分も数十分位で、あとは頭が痛くなってくる。ああ、しんどい。めっちゃ頭ガンガンしてくる。

 アホみたいに飲める人ってどんな気分なんだろうね。分かんないや。

 飲める人は飲める人同士で楽しめるのだろうか、、、。

 浮遊感が寝るまで続くなら楽しいのだろうけど、、、。飲んでも飲んでも分解されるから、永遠に摂取する必要があるのか?死にそうだな、、、。

 色んなお酒飲んで色んな気分になってみたいなと思うけれども、一年にほろよい一本が限界です。

 お酒、また来年会おう。

 Encore, alcool .

そうだ 京都、出よう。

 ああ、旅に出たい。

 基本的に引きこもり気質で、予定が無ければ永遠に家に籠っていたい。

 外は他人が多いし、騒がしい。外に出るなら深夜散策に限る。昼と違い、人が誰もいない。街はそのままであるのに、人の気配はせず、静寂に満ちている。自分だけが世界に取り残されたのではないか、という錯覚に陥り、無敵感を味わえる。なかなか楽しい。

 外に出たくないし興味ない他人となんて会いたくないのに会社には行ってるし。

 他人が傍にいるという状況が苦手だ。まあ、ほとんど話さないから良く、、、はない。一人の空間で作業させてくれ。

 そんなわけで人の多い外にわざわざ行きたくないのだが、家と会社に居続けると精神が濁ってくる。狭い空間に閉じ込められ、同じ場所にいることで、考えも固執し、空気が淀み、頭も煮詰まり、何かどうしようもなくなってくる。新しい刺激を与えたくなる。というわけで定期的に家と会社から離れた場所に出かけるようにしている。

 違う空気を吸って入れ替えないと窒息死してしまうから。

 難波、天王寺あたりはやはり面白い。

 道頓堀、NGKNMB劇場、オタロード、電気街(寂れてるけど)、通天閣スパワールド、動物園、釜ヶ崎地区、飛田新地、ハルカスと数キロにあらゆるものが詰まっている。これほどのカオスポイントが日本に他にあるのか?

 ちなみに、NMB劇場、動物園、飛田新地には行ったことない。

 面白いんだけど、人が多過ぎる。一日遊ぼうものなら、HPが極限まで削り取られるので危険。

 何で大阪ってあんな人多いんだろう。半分くらい琵琶湖か淀川か道頓堀か大阪湾に沈めればいいのに。

 最近行ったところで良かったのは、橿原神宮かな。

 大きい神社って、休日は結構混んでるけど、橿原神宮は空いてた(12月だったしね)。広いし、圧倒されるしめちゃめちゃ良かった。

 そういうわけで来週も遠くに行きたいね。次はどこへ行こう?

 

 あ、私、京都に住んでないです。

 

アイドルは空飛ぶ鳥の夢を見るか?

 「アイドル」とは元々の偶像という意味から、近年では「人気のある芸能人や多方面で活動する歌手、俳優、タレント、声優など」くらいになったと考えていいだろう。

 それが現実世界のみの存在に留まらず、仮想空間やアニメーションで表現されるアイドルも増えている。

 信仰の対象、不可侵の存在から、身近な存在、「会いに行ける」存在となり、次は仮想上の存在という、不思議な変容を遂げている。これは技術の進歩に伴う変化ではあるが。

 アイドルを仮想の存在として一部代替可能となった今、アイドルが人間である必要って何だろう。

 完璧ではない生身の人間が必死にもがき、悩み苦しむ姿があり、不器用さを残している。そのためファンは共感し、「近さ」を感じ、親近感を持つことができる。また、そこに感動を覚え、生身の人間の健気に、頑張る様子に応援したくなってしまう。

 生身の人間であるが、ゲーム感覚で応援しているような感覚も感じられる。が、多くは生身の人間として守る、育てるという目線や、無意識のパターナリズムが感じられる。生身であり、「近さ」を感じるため、自分が見てあげないと、応援してあげないと、と感じてしまう。

 アイドルとしてパッケージ化された商品である。ファンは、プロデューサーだったり親などではなく、一消費者であるということを感じにくくしており、そこに気が付かず自覚していないのは「滑稽な上から目線」であると言える。「近さ」故に盲目化してしまっている。

 大量にグッズを購入するファンがいるようだが、自分が支援者であり、商品を買わないと、イベントに生きメンバーに会わないと、という義務感、焦燥感のようなものに追い立てられてしているのではないか。

 つまり、実在の人間だから、応援したくなる。身近な存在だから、応援したくなる。そういう心理のためだろう。

 そしてそれを利用されている。アイドルが「人間」である理由、それはそれで儲かるから。アイドルにルビを振ると、経済的奴隷とでもなろう。

 「近さ」故に距離感を見誤たり、盲目化した一部の人間は考えられない行動を取る。ここに書くまでもない。

 奴隷と書いた理由は当然、そのような危険性をプロデュース側は理解しているだろうが、実際に問題は多発しているからだ。

 「人間」として軽んじられているのだろう。代替可能な商品とでも。卒業とか、恋愛問題での追放とか、商品価値がなくなったから捨てるというそれだけの話。恋愛報道によりファンが怒りを感じるのは、「生身の女の子」であることを忘れ、「アイドル」、自分のための存在と勘違いしてしまうようになるからだろう。恋愛禁止とか時代錯誤なことやってるのは単純にファンに夢を見させ、貢がせるようにするため。健気でもなんでもない。

 仕事として、なのに努力している姿、を見せる手腕は本当に恐ろしい。どこまでが仕事か、意思か、思惑か、分からなくなってしまう。

 そして奴隷であるもの。それはファンも同様かもしれない。

 

 

 ちなみに私の「ラブライブ!サンシャイン!!」への課金は生活費です。ないと死んじゃうんで、、、。

 

 バーチャルアイドルの話はまた後日、、、したい、、、。

駄堕惰

 ブログ更新スペース見直したらやる気なさすぎて笑う。

 初投稿の次が1か月後、その次が2か月後ってどういうことだよ。

 いや、自分が3日坊主なのは自分が一番よく分かっていることで。

 でも、書きたい書きたい思ってて書かないってどういうことなんすかね。

 たまに毎日更新しますと宣言して守れた試しがないので、今も毎日更新したいなと思ってはいるけど、たぶん明日には書かないので宣言しません。

 ブログ書きたい理由として、自分が今本当に生きてるのか分からないんですよ。

 生きてるという証拠がない。生きてるという確信が無い。生きてるという足跡が無い。生きてるという認識が無い。

 なので、生きてるかもしれない根拠の一つ、記録の一つとしてブログ書いておきたいですね。

 あと、私の文章、読み返してて結構面白いんで。こいついいこと書いてんな、と、まあ、自分なんで。

 生きるって、、、何ですか?

世界が世界だから世界を世界と呼びました

 シュミレーション仮説というものがある。詳しくは自分で調べてほしいのだが、私なりに話す。

 我々はシュミレーションの中に生きているのではないか。生物として知能を持った人間ではなく、知能そのもの、コンピュータシュミレーションの中の存在である。

 培養液に脳が入り、電極で信号を送られているという想像が近い。まあ、脳が存在している可能性の方が低いだろう。

 電子上の人工知能、個体としての存在はあるのかすら分からない。

 今、アニメやってるソードアート・オンラインのアリシゼーション編が近い。

 まず人工知能を人間が育て、その後どう成長するかシュミレーションし、優秀な個体を軍隊化する、、、おお、すごい話だ。

 仮説について、私としてはそうだったら面白いし、気楽に生きられるなという感じで、信じてもいいし、信じなくてもよいという考え。自分がどういう存在かなど、シュミレーションである存在には認識出来ないだろう。本当かどうか、確かめようがないし、分かったからと言って、この知能を埋め込むハコがあるのかという話だ。

 ゲーム世界の住民がそれがゲームだと気付かないのと同じ話。今いる世界がリアルだと思うのは当然だろう。

 ただ、そういう風に現実が現実ではなかったり、別の世界が広がっていたり、自分がシュミレーションのコマだとか想像するとなかなか楽しい。私は試されている存在なのか。

 現実はクソでクソで仕方ないが、そもそも現実ではないのかもしれない。すでに私は死んでいて、何らかの形で意識体?がこのバーチャル世界に残されていて、生きていると勘違いしているのかもしれない。

 現実逃避というが、現実が逃避したのかもしれない。

 視野は狭くなるほど思考を歪めさせ、苦しみを与える。なら、視野を最大限に広げよう。この世界の外へ。解放した方が面白い。

 日々も苦しみも与えられたもの。周りの全て、仕向けられたもの。ああ、意地の悪いシュミレーションだ。

 疑問なことがあり、寝る時に見る夢は、何故知らないこと、体験していないことを行えるのか、認識できるのか、と思うのだ。夢もシュミレーションにより見せられているものだとすれば、知らないことを知れるのは当然。それも与えられたものだから。

  この存在を作ったもの、つまりプログラム設定者が神とか呼ばれているのかもしれないね。

 なら宗教は皮肉なものになる。創造者である自分を崇めさせているのだから。

 この世界は、偽物。私は、偽物。あなたも?