多岐亡羊

社会を漂いもがいて何とか生き長らえる子羊です。

経過報告2

  5月9日

 休職中、毎日更新するつもりでこのタイトルと形式にしたのだが、、、2か月書いてないぞ。

 この2か月、何していたのかと言えば、、、ひたすら寝て、苦しんで、考えて、ゲームして、ゆるキャン△見て、ネットして、スーパー銭湯行ったりしていた。

 4泊5日で身延、沼津、東京やらを旅行もした。その記事も作成中ではある(作成中の旅行記が山ほど溜まっているのだが、、、)。

 まあ、ようやくもう少しは生きれるかなという気分になってきた。何かをしようとは考えられないが。

 しかし、「もう少し生きてもいいかなと考えられるようになる」と「死ぬまで働き続ける」がニアリーイコールで語られるの、ありなくないだろうか。100万光年くらい距離があると思うのだが。

 ということで、しばらく何も出来ない生活が続きそうだ。

 GWに何人か人と会って、現状について話した。

 11か月しか会社で働けない、社会不適合のクソゴミ野郎などと罵られるかとビクビクしていたが、全く反応は違っていて驚いた。まあ、そんなこともあるさみたいな、というか特に気にしていない感じ。普通に話せて良かったのだが、それは「しばらくしたら新しい会社を見つけて働くだろう」と思われていたからである。次頑張れよみたいに言われたし、そうであろう。

 しかし、もう私には「自分が会社に毎日行って人と会って働くことの出来る人間である」と全く思えなくなった。就職する前から「一つの会社で働けるのは長くて3年、短くて半日」と思ってたので、まあその通りなのだが、もう半日も働ける気がしない。

 自分への自信やら肯定感をすっかり失ってしまった。まあ無理だろうという諦めが膜のように自分を覆っている。

 それと、会社を辞めたことで(辞めてないけど)達成感のようなものを感じている節もある。他の人が40年くらい働いて辞める所を、私は1年弱働いて達成した感がある。

 どうせ働いている40年なんて、「失われる40年」なのだし、さっさと終わりを迎えたと思えば悪くもない。

 なのでもう余生感がある。色々やりたいことはあるけど、やらなくてもいいし、それを言ったら何もしなくていいのだけれど。

 もういつ死んでもいいけど、今死ぬ理由もないし、そもそも怖いし、惰性のみで生きている。

 他者の手によって死ぬのは嫌だし、自殺が一番良い死に方だと思っている。自殺以外で死にたくないが、自殺の勇気はまだない故に死を恐れるという不思議な状態である。

 もう少し丁寧に書きたかったな、、、まあいいや。おやすみ。

 

経過報告1

 3月11日

 会社を休職することにした。正確には、2月末から会社に行っておらず、先週の金曜にようやく休職の手続きが終わった、ということだ。

 

この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど強迫的とも言えるようなその思いが、どこから湧いてくるのかも解らずに僕はただ働き続け、気付けば、日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。

そしてある朝、かつてあれ程までに真剣で切実だった思いが綺麗に失われていることに僕は気付き、もう限界だと知った時、会社を辞めた。  

  -秒速5センチメートル-

 

 会社を辞める時はこの台詞をTwitterで呟こうと思っていたのだが、概ねこんな感じである。

 必死に生きようとして、もがいてもがいて、何かを掴みたくて、焦って、つらくて、苦しんで。そんな日々を送り続ける度に心は濁り、顔も曇り、体は固くなり。

 ついに頭も心も体も動かなくなり、何かが音を立てて途切れた。「もう、何もしなくていいんだな」と。世界から手放された。

 濁流の中から静寂へ。そこには何もなかった。辿り着いたという感覚もなく。投げ出されたという感覚もなく、ただ、そこに元々いたようにしか思えない。

 あの日の悲しみも、苦しみも、輝きも、微笑みも、もうどこにもなかった。

 五里霧中から、凪の状態へ。台風を抜け出し、目に入ったと思ったら、永遠に出られなくなった。

 何者かになりたくて、何者にもなれず、何も得られなかった。

 いつでも探していた。どっかに...何かを。

「私」が私を見つめてました

 「ねほりんぱほりん コスプレイヤー」見た。他者からの称賛を求めるために、つながるために作品利用、とか穿った見方をしてたけど、本来キャラになりきること、だよね。

 しかし、他者からの承認など関係なく、自分が求める姿になる為にひたすら行うっていうのは凄い。

 自分という存在が不要で、他者になることで生きることが出来るって、どういう気分なんだろう。他者になりたい、キャラになりたいってあまり思ったことないなあ、、、。自分って何だろうということで悩み続けて、そんなもの答えは出るわけない、自分なんてなく、そうあるもの、はたまた選択するものである、くらいに捉えている。

 でも、こうじゃない、演じすぎて、作りすぎて、結局何なんだ。とも思う。

 この文章さえも、本当に私の考えていることなのかさえもよく分からない。

 まあ、結局「自分」を諦めていないから悩んだりよく分からなくなるわけで。

 自分を捨ててしまえばそう考えたり悩むことはなくなる。

 アザーズプレイってことか。もう少しうまい例え出ないかな、、、。

 他者からの承認は求めていないが、他者(プレイ対象)が必要なわけで、それに依存しているわけで。

 うーん、よく分からん。

 まあ、他者なんて分かるわけないんだけど。

 終わり。

賛同歌

  イケメンとか美人とか言うけれど、何かを美しいと思う価値観って全ての人に依って違うわけで。だから誰かの言う「美しい」とか「可愛い」とか「カッコいい」とかいうのはその人にとって、そうであるという、それ以上の意味は持たない。単に私はこう思うという自己主張に過ぎず、他者に同調を求めたりすることは見当違いだと思うのだけど。意味する対象は百人いれば百人違う。メディアとかツイッターとかでも、それを同意があること前提で言っている人がいる。おお、面白いな。謎だ。自分の価値観が他者と似通ったもの、賛同を得られるものだとして発信しているのか。そんなに自分の価値観と他者を信用できるものなのか?

 それとも他人を他人とそこまで思っていないのか。他人とも価値観はそこまで変わらないものだと思っているのか。どういうことなのだろう。私はそう思う。お前もそうだろう?という同調圧力か。それとも、私はこう思う。お前もそう思え、という強制か。

 他人なんて何を考えているか皆目見当もつかないし、信用もしていないのでよく分からない。

 そう思いつつもどこかに賛同する人がいないかあと思いながらキーボードを叩いている。

Encore, alcool

 一年ぶりくらいに酒を飲みながらこの文章を書いている。

 前回、飲んだのが去年の2月中旬の卒論発表の後だったから、約1年ぶりだ。

 お酒は「ほろよい ひんやりみかんサワー」。分かる人は分かると思う。半年前くらい前に買って、今日まで飲もうと特に思わなかった。

 しかし、半分くらい飲んでもう頭がクラクラし始めてる。もういらねえ、、、勿体無いが。

 酒に弱すぎて、普通に危険なので、一年に一回くらいしか飲もうと思わない。

 仕方なく、というか好きで『ワカコ酒』を読んで飲んで食べた気になってる。大体それで満たされてるんだけど。

 頭がトリップしてこの世の境目が分からなくなる感覚は心地いい。

 風邪とか温泉とか、寝る前とかの朦朧とした気分、世界を揺蕩う気分になれるものはいいよね。

 だがしかしそんな気分も数十分位で、あとは頭が痛くなってくる。ああ、しんどい。めっちゃ頭ガンガンしてくる。

 アホみたいに飲める人ってどんな気分なんだろうね。分かんないや。

 飲める人は飲める人同士で楽しめるのだろうか、、、。

 浮遊感が寝るまで続くなら楽しいのだろうけど、、、。飲んでも飲んでも分解されるから、永遠に摂取する必要があるのか?死にそうだな、、、。

 色んなお酒飲んで色んな気分になってみたいなと思うけれども、一年にほろよい一本が限界です。

 お酒、また来年会おう。

 Encore, alcool .

そうだ 京都、出よう。

 ああ、旅に出たい。

 基本的に引きこもり気質で、予定が無ければ永遠に家に籠っていたい。

 外は他人が多いし、騒がしい。外に出るなら深夜散策に限る。昼と違い、人が誰もいない。街はそのままであるのに、人の気配はせず、静寂に満ちている。自分だけが世界に取り残されたのではないか、という錯覚に陥り、無敵感を味わえる。なかなか楽しい。

 外に出たくないし興味ない他人となんて会いたくないのに会社には行ってるし。

 他人が傍にいるという状況が苦手だ。まあ、ほとんど話さないから良く、、、はない。一人の空間で作業させてくれ。

 そんなわけで人の多い外にわざわざ行きたくないのだが、家と会社に居続けると精神が濁ってくる。狭い空間に閉じ込められ、同じ場所にいることで、考えも固執し、空気が淀み、頭も煮詰まり、何かどうしようもなくなってくる。新しい刺激を与えたくなる。というわけで定期的に家と会社から離れた場所に出かけるようにしている。

 違う空気を吸って入れ替えないと窒息死してしまうから。

 難波、天王寺あたりはやはり面白い。

 道頓堀、NGKNMB劇場、オタロード、電気街(寂れてるけど)、通天閣スパワールド、動物園、釜ヶ崎地区、飛田新地、ハルカスと数キロにあらゆるものが詰まっている。これほどのカオスポイントが日本に他にあるのか?

 ちなみに、NMB劇場、動物園、飛田新地には行ったことない。

 面白いんだけど、人が多過ぎる。一日遊ぼうものなら、HPが極限まで削り取られるので危険。

 何で大阪ってあんな人多いんだろう。半分くらい琵琶湖か淀川か道頓堀か大阪湾に沈めればいいのに。

 最近行ったところで良かったのは、橿原神宮かな。

 大きい神社って、休日は結構混んでるけど、橿原神宮は空いてた(12月だったしね)。広いし、圧倒されるしめちゃめちゃ良かった。

 そういうわけで来週も遠くに行きたいね。次はどこへ行こう?

 

 あ、私、京都に住んでないです。

 

アイドルは空飛ぶ鳥の夢を見るか?

 「アイドル」とは元々の偶像という意味から、近年では「人気のある芸能人や多方面で活動する歌手、俳優、タレント、声優など」くらいになったと考えていいだろう。

 それが現実世界のみの存在に留まらず、仮想空間やアニメーションで表現されるアイドルも増えている。

 信仰の対象、不可侵の存在から、身近な存在、「会いに行ける」存在となり、次は仮想上の存在という、不思議な変容を遂げている。これは技術の進歩に伴う変化ではあるが。

 アイドルを仮想の存在として一部代替可能となった今、アイドルが人間である必要って何だろう。

 完璧ではない生身の人間が必死にもがき、悩み苦しむ姿があり、不器用さを残している。そのためファンは共感し、「近さ」を感じ、親近感を持つことができる。また、そこに感動を覚え、生身の人間の健気に、頑張る様子に応援したくなってしまう。

 生身の人間であるが、ゲーム感覚で応援しているような感覚も感じられる。が、多くは生身の人間として守る、育てるという目線や、無意識のパターナリズムが感じられる。生身であり、「近さ」を感じるため、自分が見てあげないと、応援してあげないと、と感じてしまう。

 アイドルとしてパッケージ化された商品である。ファンは、プロデューサーだったり親などではなく、一消費者であるということを感じにくくしており、そこに気が付かず自覚していないのは「滑稽な上から目線」であると言える。「近さ」故に盲目化してしまっている。

 大量にグッズを購入するファンがいるようだが、自分が支援者であり、商品を買わないと、イベントに生きメンバーに会わないと、という義務感、焦燥感のようなものに追い立てられてしているのではないか。

 つまり、実在の人間だから、応援したくなる。身近な存在だから、応援したくなる。そういう心理のためだろう。

 そしてそれを利用されている。アイドルが「人間」である理由、それはそれで儲かるから。アイドルにルビを振ると、経済的奴隷とでもなろう。

 「近さ」故に距離感を見誤たり、盲目化した一部の人間は考えられない行動を取る。ここに書くまでもない。

 奴隷と書いた理由は当然、そのような危険性をプロデュース側は理解しているだろうが、実際に問題は多発しているからだ。

 「人間」として軽んじられているのだろう。代替可能な商品とでも。卒業とか、恋愛問題での追放とか、商品価値がなくなったから捨てるというそれだけの話。恋愛報道によりファンが怒りを感じるのは、「生身の女の子」であることを忘れ、「アイドル」、自分のための存在と勘違いしてしまうようになるからだろう。恋愛禁止とか時代錯誤なことやってるのは単純にファンに夢を見させ、貢がせるようにするため。健気でもなんでもない。

 仕事として、なのに努力している姿、を見せる手腕は本当に恐ろしい。どこまでが仕事か、意思か、思惑か、分からなくなってしまう。

 そして奴隷であるもの。それはファンも同様かもしれない。

 

 バーチャルアイドルの話はまた後日、、、したい、、、。